Interview #4

家族でつなげる
金沢桐工芸の昨日・今日・明日

岩本清商店 岩本歩弓

北陸新幹線開業で活気づく金沢の繁華街から少し離れた住宅街の一角に、岩本清商店はあります。
創業は1913年(大正二年)。
現在、金沢桐工芸の製造・販売を専業で営む唯一のお店です。
岩本家の長女で五代目にあたる岩本歩弓さんに工場の中を案内していただきました。
熱気のこもる工場に一歩入ると目に飛び込んでくるのは、天井からぶら下がる大きな滑車の数々。
この滑車の動力で表面を磨いたり、のこぎりを動かしたり。
レバーを上げると滑車が一斉に動き出し、工場自体がまるで生き物のよう。
とってもカッコイイのです。
工程の一部を実演してくださったのは、職人の内田健介さん。
丸く成形された火鉢の表面をバーナーで焼いていくと白い肌がみるみる黒く変化していきます。あっという間のことでしたが、ムラなく黒くするのは難しいのだそうです。
金沢の桐工芸は、桐タンスの白木とは異なり、表面を焼いて磨いた黒い焼肌が特徴です。

工場の天井にはたくさんの滑車!

猛暑の中でバーナーを実演してくださいました。湘南育ちの内田健介さん


────焼肌にするのはどういう目的があるんですか?

桐は表面を焼くことで、木目の広い部分が盛り上がります。木目の美しさを際だたせるためですね。 特に火鉢のような丸い形状だと木目が綺麗に出るんですよ。
なるほど、丸みを帯びた表面はふくよかな美しさを湛えています。
発火点の高い桐の特性を生かし、火鉢から発祥した金沢桐工芸ならではの技なんですね。
お次はくるくると回転するタワシで煤を落とし、その後に水をつけて布で磨くと、黒光りする艶が現れました。
なんとも渋く重厚な味わい。
…なのに手に持つと、あれ?軽い!! 
見かけを裏切る軽さ、柔らかさも桐という素材独特の面白さでしょう。
研磨の後は、表面に拭き漆やウレタンを塗り、蒔絵や焼き印などの加飾を施して完成です。
内田さんは歩弓さんのパートナー。学生時代に歩弓さんと東京で知り合い、就職後、ともに金沢へ。今では職人歴十年を数えたそうです。
工場の一番奥で黙々とろくろを回し続けていたのは、歩弓さんの弟の岩本匡史さん。 山中漆器の産地で修行を積み、今は岩本清商店の木地師として活躍されています。
金沢桐工芸は基本的に分業制。かつて職人さんが多くいた時代には、一日中、磨きだけを担当されていた方もいたそうですが、今は挽き物部門を匡史さん、それ以外を内田さんと歩弓さんのお父様、岩本清史郎さんが手がけてらっしゃいます。制作以外全般が歩弓さんの担当だそうです。

黙々とろくろに向かう岩本匡史さん。木くずが積もっていく中での大変な作業です(窓越しの写真でごめんなさい)


後継者不足が深刻な問題となっている伝統工芸の世界。
技を伝えるお父様がご健在で、若い世代が三者三様の役割を果たしている岩本清商店は稀有で幸せなケースといえるでしょう。

────歩弓さんは東京で編集者をされていたそうですが、家業を継ぐきっかけはなんだったのですか?

んー、特に深く考えて帰ってきたわけではないんです。学生時代は桐工芸が何なのかもよくわかってなくて、友人には「実家は桐タンス作ってる」とか言っていたくらい(笑)。
ただ、出版社で働いた経験から、もっとお金をかけなくてもできる売り方、アピールの仕方があるんじゃないか、という思いがありました。
最初はいろんなお店に飛び込み営業したり、金沢の伝統工芸品に桐工芸が入っていなかったので、入れてもらえるように働きかけたり。人目につく機会を増やしたいと考えました。

────戻られた当時、火鉢以外にはどんな品がありましたか。

火鉢から派生した灰皿、たばこ盆や花生けなどを多く作っていました。一時期、結婚式の引出物として蒔絵のついた花生けはよく出たそうです。
でも、暮らしがだんだん変わってきて、豪華な蒔絵が日常にはそぐわなくなり、暖房器具として火鉢は使われなくなって…。自分で使いたいと思える品があまりなかったんです。

────そんな中で「ちょこっとトレー」が生まれたのですね。

「ちょこっとトレー」ができたのは今から十年ちょっと前です。
その時すでに職人さんはおらず、父ひとりとなっていました。
貧乏暇なしで忙しく、新しい品を一から作るということが難しかったこともあり、元からあった正方形のコースターとトレーをくっつける、という発想で、「ちょこっとトレー」ができました。
若い人にも手にとってもらえるように値段をできるだけ安く設定し、今どきの部屋に合うように「艶なし」仕上げのものも作りました。
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